0972-63-1177 お問い合わせ お買い物カゴ

トップ | カニ醤油について > カニ醤油の歴史

カニ醤油の歴史

可兒醤油は屋号を鑰屋(かぎや)といいます。

「鑰」とは、●物事の要●重要な役割●中心
という意味です。今では「鍵」という字が一般的ですが空海が説いた、秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)や古い文献には、「鑰」という漢字が出てきます。漢字の形状から考えると、複雑な形をした「かぎ」という意味でしょうか。410年以上経った今でも「鑰屋の醤油、鑰屋の赤味噌」として親しまれ、お得意様からは屋号で「鑰屋さん」と呼ばれています。
よくお客さんから「カニ醤油はどれ?」と尋ねられますが、当店の作る醤油は全てカニ醤油です。カニだからといって海にいるカニは入っていません。カニさんが作るから「カニ醤油」なのです。もしアナゴさんだったら、「アナゴ醤油」になっていたはずで、それはまたおいしそうな醤油のイメージはしますが、アナゴは入っていません、と同じことです。

稲葉7人衆(いなばしちにんしゅう)

慶長の時代(江戸開廟前)、美濃藩主稲葉貞道が臼杵に移封される1年前、商人・医者・僧侶・農民等に変装した7人の武士達が臼杵の町に偵察に来ました。俗に言う稲葉の7人衆です。商人に変装した可兒孫右衛門は、一年後に殿様と一緒に來臼した次男と共に、臼杵市本町で1600年(慶長5年)味噌の製造業、「可兒醤油、屋号:かぎや」を興しました。以来城下町商人として手広く商いをし、稲葉藩に貢献して繁栄をもたらしたとして名字・帯刀を許されましたが、武士であった可兒孫右衛門は、商人になる為3年間牢獄に入ったと可兒家文書に記されています。 その後412年間、創業時と同じ場所で今も11・12代目が商いをしています。

天保の鬼瓦(てんぽうのおにがわら)

天保15年、当店の本宅を建てた時の鬼瓦です。幅:約120cm、高さ:約90cm、奥行き:約10cm。上の部分はさらに厚さ15cm、高さ20cm。中心部には家紋が入っています。常時カニ醤油の店舗内に飾っておりますのでぜひ、ご覧になってください。

建物について

カニ醤油本社は築350年以上の蔵づくりです。昭和45年位まで大工さん・左官屋さん・樽屋さんが常勤で毎日何処かでトントンと言う音がしていたそうです。11代当主をはじめ、それまで代々の当主はその音を子守唄に聞きながら成長してきたそうです。蔵作りですので、もちろん夏は外気温よりだいぶん涼しいです。未だに文明の利器はなく、過去の猛暑にもクーラーなしなのに暑さを充分しのげました。 ただ冬は雪山やスキー場で使われるような家庭用じゃないストーブを入れますが、寒いです。極寒です。
11代いわく、「エコっち流行っちょるけど、うちはずっとエコ生活やけんの」

時代的には、江戸時代から数々の津波や地震に耐えうる為、50年に一度の大改築を行っていましたので、ごく新しい大改築時期である明治期に行われた部分が最近登録文化財になりました。
また第二次大戦中には、アメリカのB29に襲撃されるから目立たないようにと壁を黒く塗らされたり、飛行機の原料に使うのに鉄の扉を提供しました。またその際、所持していた家宝である数々の刀も没収されたと11代が覚えています。
昭和時代に、上にアーケードが出来てからは屋根も壁も見えない時期がありましが、近年のアーケード撤去により再度その姿を見ることができるようになり、時代の波にのまれながらも長く佇むということの試練を痛感しています。


(大正時代の本社前)

(現在の本社前)

 

鑰屋の白狐伝説(かぎやのしろぎつねでんせつ)

江戸の華は、喧嘩と火事と言われた程火事が多かった時代。臼杵の町も例外ではありませんでした。
元和・宝永・享保・寛保・・・と当店の蔵が各々の時代の火事の炎をくぐり抜けて来られたのは、蔵に棲む白狐のおかげだった、と言い伝えられています。 
明治になり西郷隆盛が臼杵に攻め込んだ時、臼杵の町は炎と化し、臼杵城も焼け、城下は火の海となりましたが当店だけはビクともせず、慶長の蔵づくりの雄姿をずっと平成まで残しています。

 

| 概要 | カニ醤油の歴史 | 可兒家人物伝 | 歴史写真館 |

今月の出張販売

みそづくり体験教室

ページのトップへ戻る