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可兒家人物伝

可兒家人物伝では、可兒家当主に加え、縁のある人や深く親交のあった人々を紹介しています。

可兒 才蔵 かに さいぞう(1554~1613)

可兒 才蔵時は関ヶ原の合戦、槍の名手と言われた才蔵は合戦の火蓋が切って落とされると 活躍は著しく他の武将を抜きん出ていた。
才蔵は最多の十七の首を取ったが持って帰るに帰れず、そこで知恵を絞った才蔵は 自分の手柄として生首の一つ一つの口に笹を銜えさせた。

他の武将から「槍の才蔵と言われながら手柄なし」と笑われたが、 才蔵は「生首が笹を銜えさせている数を数えるがいい」と豪快に言い放った。
十七名の首に銜えさせた笹から「笹の才蔵」と呼ばれた。

後年、知恵があると言われた才蔵は、広島市に才蔵寺を建立、中にある地蔵は 味噌地蔵と呼ばれ脳みその神様転じて現在では受験の神様と呼ばれている。

可兒 玄好 かに げんこう

可兒家三代当主・直該作右衛門の第三子として生まれるが、直該の兄・八右衛門(はちえもん)に子供が無かったため養子となった。
伊東仁斎、東涯親子が京都に開いた堀川学校に1685年7月に入門。 玄好と東涯が一緒に机を並べて学んだ様子は伊東東涯の手書「課試訳業」に詳しく記載されている。

東涯と玄好は兄弟以上の契りを結び勉学に励んだが1685年玄好が回郷せんとするや 東涯は惜別の情に堪えず9月19日悲憤に満ちた序を作っている。

伊東東涯書(紹述先生文集巻之一)の中に[贈可兒玄好帰豊後序]と記述されている。

儒と医を修めた玄好は医者となり、同じ時代を生きた多福寺賢巌とは非常に親しかった。 その後、秦十兵衛の女を娶り二女子が生まれたが各々幼少の時に死別し、玄好の家は途絶する。

9代当主・可兒 孝次郎 かに こうじろう(1600?~1734)

9代当主・可兒 孝次郎1853年鑰屋可兒醤油九代当主・伝衛門直慶(でんえもんなおよし)として本町に生まれる。

家業の醸造業を営みながら、明治10年頃より活躍した。 商談会(現在の商工会議所)を明治18年正式に臼杵商談会として 会長・可兒孝次郎、副会長・小手川角三郎で発足させた。

明治22年留恵社が経営していた網屋、塩谷夷屋を商談会が買収、統合して 資本金4千円で臼杵海産物会社を設立。 商談会は海産会社と表裏一体をなし孝次郎の優れた統率力から商工業に限らず より広いスケールでの活動を展開していった。

地域経済の発展には交通体系の整備が重要との認識から道路改修、新道開通、 港の新港の建設などを手がけ海陸を通じて臼杵市を大分県南部の要に作り上げ 醸造、海運、造船といった臼杵の主要産業を育てた功労者でもある。

孝次郎は経済発展のためには鉄道の果たす役割が不可欠と言う信念のもと 大分県出身のの政治家(元田肇・山本達雄・箕浦勝人)を動かし、 寝食を忘れ奔走した結果 当時の鉄道院総裁・後藤新平らが 臼杵市を訪れ現在の日豊線海岸ルートが決定した

孝次郎たちの尽力なくして現在の臼杵市は無かった。

又、臼杵銀行設立、大分中学の分校たる臼杵中学の設置、臼杵商業学校の発足設立等 地域の繁栄に貢献した。

政治的関心は無かったが、板垣退助・福澤諭吉・荘田平五郎を介して日本財界の 重鎮、岩崎弥太郎とも密接な関係があり、 その厚い人望が商談会の発展にもつながったのである。

昭和6年4月、78歳の天寿で逝去。

18歳で東京に旅行し「東京紀行」を書く。 以後昭和6年3月まで明治・大正・昭和の臼杵市の政治・経済・人脈網、 東京での出来事などなどを60冊の日記として残す。 しかしその日記は孝次郎の遺言で門外不出。

今も可兒家で孝次郎が使用していた長持ちの中で眠っている。

10代当主・可兒 昌平 かに しょうへい(1905~1972)

10代当主・可兒 昌平1905年(明治35年)大分県臼杵市本町に九代・可兒孝次郎の6男として生まれる。

現在の明治大学商学部卒業後、東京の渡辺銀行に勤務。

数年後銀行を退職、可兒醤油の十代当主になる。

後に渡辺銀行は昭和大恐慌の始まりとなる。

昭和11年、長男孝平(現十一代当主)誕生と同時に合資会社可兒商店に改組。

昭和38年、可兒醤油合資会社に改組。

荘田 平五郎 しょうだ へいごろう(1847~1922)

荘田 平五郎嘉永元年(1847年)荘田充命の長男として塩田(しおた・臼杵市の地区名)に生まれる。

慶應3年、藩命により江戸の「青地信敬塾」で英語を学びその際福澤諭吉を訪ね、「西洋地理書」を購入した。帰藩後、宮川玄水と共に「鹿児島藩学開成所」に入塾、平五郎は洋学、玄水は医学を学んだ。

明治2年、24歳で慶応義塾に入塾。
明治8年には三菱商会に入社、福澤諭吉の友人の岩崎弥太郎に引き取られ三菱の最高幹部になる。

可兒孝次郎より6歳年長だったが、友人であり公私共に仲が良かった。
一例を挙げれば、平五郎がヨーロッパに外遊したした折当時としては非常に珍しかったイギリス・ジレット社の電気カミソリを土産に買って来たり、福澤諭吉宅には同伴で度々訪問していた。その他、沢山のエピソードは孝次郎の日記に記されている。

また、愛郷心が強い平五郎は臼杵出身の人を多く、慶應・三菱に入れている。

今も可兒家で孝次郎が使用していた長持ちの中で眠っている。

箕浦 勝人 みのうら かつんど(1854~1930)

箕浦 勝人嘉永7年(1854年)実相寺常之丞(じっそうじとこのじょう)の次男して生まれる。

明治元年箕浦又男(みのうらまたお)の養子となる。

明治4年荘田平五郎に伴われ上京し福澤諭吉のいる慶応義塾に入学。

明治8年卒業後、報知新聞に入社。
「議会論」を連載、一躍箕浦勝人の名を有名にした。
しかし言論の行き過ぎがあったのか新聞条例に抵触、2ヶ月投獄される。
出獄後は福澤諭吉のもとで概刊紙の編集に従事、一年後帰郷し養父又男の娘不二子と結婚。
同年慶応義塾の先輩で宮城師範学校長、吉川秦次郎の招きで 同校の教師となるが、翌26歳の若さで県立に移官された宮城師範学校改め 仙壱師範学校の校長になる。

明治14年、荘田平五郎の創設した明治生命保険会社大阪支店長を勤めた後、上京。
再び報知新聞に入社、以後同士と共に「立憲改進党」を組織し政治色を強めた。

明治37年、逓信大臣に任命され「逓信省簡易保険」を設置、 安価で容易に入れる生命保険を考案したのである。

勝人は孝次郎と義兄弟であった。

山本 達夫 やまもと たつお(1856~1948)

山本 達夫安政3年(1856年)臼杵市海添鉄砲町に山本たしか(やまもとたしか)の次男として生まれる。
3歳のとき本家の山本幽妻(ゆうさい)の養子となる。

幼年期は大変なガキ大将で、本町に生まれた可兒孝次郎とは3歳違いの友達であった。
以後公私に渡り昭和6年(1931年)孝次郎が亡くなるまで親交があった。

上京し慶応義塾に入学するも月謝が続かず大阪に行き小学校教師になったりと 青年期は非常に波乱であった。

しかし28歳のとき、荘田平五郎の招きで三菱汽船会社に入社。
横浜店福支配人、東京店副支配人を務めた後日本銀行に入社。
帝大出身のエリートが多数を占める中で43歳のとき、日銀5代目の総裁に任命される。

明治32年「日銀ストライキ事件」がおこるが山本達雄は動揺することなく対処した。
時の元老伊藤博文は山本達雄を援護して政府に意見している。

48歳で任期を終えると共に貴族院議員となり第二次西園寺内閣で大蔵大臣に任命された。
今でこそ経済界出身の大蔵大臣はいるが山本達雄がその第一号であった。

後に農商務大臣・内務大臣を歴任、可兒孝次郎たちの臼杵商談会が活躍した時代に 鉄道の日豊線ルートを提案していた商談会のために大いに活躍した。

大正9年には男爵を授けられる。 若年期は波乱に飛んだ時代だったが、荘田平五郎から招かれて三菱入社後は 非常に順風満帆で政界と歩み92歳の天寿で逝去。

安達 丹霞 あだち たんか(1858~1930)

安達 丹霞安政5年(1858年)臼杵市本町の呉服商丸屋に生まれる。本名は安達紋五郎。
可兒孝次郎の嫁マサの弟で、孝次郎とは5歳下の義弟である。

幼少時には日田の広瀬淡窓(ひろせたんそう)の咸宜園(せいきえん)に学ぶ。
何事に於いても秀才だった。

帰郷後、安養寺智雄(あんようじともお)・児玉慮香(こだまろか)と往来し画を修める。
後に大阪、下関に於いて商売を始める。

永年東京に移り住み、日露戦争時に株の売買で巨万の富を築き 現在の駒込周辺に3万坪の敷地を購入、大御殿を建設。
名前を捩って門を5箇所につけ、その門から屋敷まで馬車で往来していた。

又、ダルマ宰相と言われた高橋是清(たかはしこれきよ)、 明治・大正・昭和の政界の中枢で活躍した若槻礼次郎(わかつきれいじろう)等と親交があり 紋五郎の長女、安子(しずこ)が是清の膝の上に抱かれている 写真などが多数残っている。

画を修め豪快に怒涛のように明治・大正・昭和を生きた丹霞は昭和5年10月72歳で逝去。

その後長男・次男は戦死。
残された妻と7歳の長女安子が莫大な遺産と広大な土地を相続したが 丹霞が選任していた後見人の弁護士に騙され、全ての遺産を取られてしまい 一代で築いた財産は丹霞と共に消えてしまった・・・

丹霞は今も臼杵市多福寺の一角にある、自ら四国から運ばせた 大きな丸い御影石の墓の中で眠っているが 長女安子の有為転変の人生をどのように見ていただろうか。

福澤諭吉と可兒孝次郎・清一郎親子

福澤 諭吉
ふくざわ ゆきち(1835~1901)

可児 孝次郎
かに こうじろう(1853~1931)

可児 清一郎
かに せいいちろう(1876~1898)

9代当主可児孝次郎には、清一郎と言う長男がいた。

清一郎は勉学熱心な子どもだった。 孝次郎が「商売に勉学は必要無い」と叱っても とにかく学びたいと孝次郎に執拗に言っていたようだ。
とうとう根負けした孝次郎だったが、上京して知人の福澤諭吉を訪ね 諭吉から清一郎に「商売人は商売に励めばよい、勉学は必要無い」 と言ってほしいと頼んだ。

ところが、諭吉は反対に孝次郎に 「時代は変わったのだから、これからは資本家も経済学を学び世界に眼を向けるべきだ」 といって論されてしまった。
又、「孝次郎さん、人力車は車夫が引っ張るが、車夫も人間ですよ」と諭吉に言われ、 孝次郎は臼杵に帰ってすぐ人力車を廃止、家の者も人力車に乗ることを禁じた。

その後、清一郎は慶応義塾に入塾、学校から1キロ程の寄宿舎に入り 毎朝、諭吉先生や友人達と下駄をカランコロンと鳴らし、諭吉先生からいろいろな話を 聞きながら学校に行くのがとても楽しかったと孝次郎に話している。
また、孝次郎もそのような清一郎の話を聞く事は、どれ程嬉しかっただろうか。

しかし、この明治31年福澤諭吉先生を囲んで撮った卒業写真の後、

臼杵に帰った清一郎は間もなく心筋梗塞で逝去。
短い人生だったが、大好きだった勉学、諭吉先生や学友達との語らいなど 自ら望んで進んだ道に、悔いはなかっただろう。

また、この時の卒業生達、六十数名はそのほとんどが日本の経済界のリーダーになった。 (卒業写真は当時のまま、ここ可児醤油の事務所に飾られている。)

伊藤 東涯 いとう とうがい(1670~1736)

伊藤 東涯寛文10年(1670年)儒学者伊藤仁斎(いとうじんさい・堀川塾主宰)の 長男として京都・堀川で生まれる。
幼時より父から家学を受けて学問に優れ 末弟の伊藤才蔵(いとうさいぞう)と共に堀川の首尾蔵と言われた。
東涯15歳の時、可児玄好(かにげんこう・3代当主の三男)は堀川塾に入塾。
東涯と玄好はお互いに年齢が違うが実の兄弟の様に親交を深めていった。

仁斎の学問を継承し祖述した東涯は「紹述先生」と呼ばれた。
しかしその学問は紹述に留まらず博覧、綿密な学究としても知られている。

可児玄好を実弟のように可愛がっていた東涯は、玄好が豊後の国臼杵に帰郷した時 大変落胆して「紹述先生文集」巻之一に贈可児玄好帰豊後序として書いてある。
これは現在、天理大学天理図書館古儀堂文庫所に収められている。

東涯は多くの子弟を輩出し、蘭学者の始祖と言われた青木昆陽(あおきこんよう)も 東涯の弟子である。
教育者として不朽の痕跡を史上に残し日本に伝わる青磁茶碗の代表の逸品 「馬蝗絆」の銘を付けたのが伊藤東涯その人である。

宝永2年(1705年)父の死後、古儀堂2代を継ぎ町学者として宗旨し 元文元年(1736年)7月逝去。

「人の長短は見易く、己の是非は知り難し」 伊藤東涯

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