箕浦 勝人(みのうら かつんど)

(1854〜1930)
嘉永7年(1854年)実相寺常之丞(じっそうじとこのじょう)の次男して生まれる。
明治元年箕浦又男(みのうらまたお)の養子となる。
明治4年荘田平五郎に伴われ上京し福澤諭吉のいる慶応義塾に入学。
明治8年卒業後、報知新聞に入社。
「議会論」を連載、一躍箕浦勝人の名を有名にした。
しかし言論の行き過ぎがあったのか新聞条例に抵触、2ヶ月投獄される。
出獄後は福澤諭吉のもとで概刊紙の編集に従事、一年後帰郷し養父又男の娘不二子と結婚。
同年慶応義塾の先輩で宮城師範学校長、吉川秦次郎の招きで
同校の教師となるが、翌26歳の若さで県立に移官された宮城師範学校改め
仙壱師範学校の校長になる。
明治14年、荘田平五郎の創設した明治生命保険会社大阪支店長を勤めた後、上京。
再び報知新聞に入社、以後同士と共に「立憲改進党」を組織し政治色を強めた。
明治37年、逓信大臣に任命され「逓信省簡易保険」を設置
安価で容易に入れる生命保険を考案したのである。
勝人は孝次郎と義兄弟であった。