可兒 孝次郎(かに こうじろう)

(1853〜1931)
1853年鑰屋可兒醤油九代当主・伝衛門直慶(でんえもんなおよし)として本町に生まれる。
家業の醸造業を営みながら、明治10年頃より活躍した。
商談会(現在の商工会議所)を明治18年正式に臼杵商談会として
会長・可兒孝次郎、副会長・小手川角三郎で発足させた。
明治22年留恵社が経営していた網屋、塩谷夷屋を商談会が買収、統合して
資本金4千円で臼杵海産物会社を設立。
商談会は海産会社と表裏一体をなし孝次郎の優れた統率力から商工業に限らず
より広いスケールでの活動を展開していった。
地域経済の発展には交通体系の整備が重要との認識から道路改修、新道開通、
港の新港の建設などを手がけ海陸を通じて臼杵市を大分県南部の要に作り上げ
醸造、海運、造船といった臼杵の主要産業を育てた功労者でもある。
孝次郎は経済発展のためには鉄道の果たす役割が不可欠と言う信念のもと
大分県出身のの政治家(元田肇・山本達雄・箕浦勝人)を動かし、
寝食を忘れ奔走した結果
当時の鉄道院総裁・後藤新平らが
臼杵市を訪れ現在の日豊線海岸ルートが決定した
孝次郎たちの尽力なくして現在の臼杵市は無かった。
又、臼杵銀行設立、大分中学の分校たる臼杵中学の設置、臼杵商業学校の発足設立等
地域の繁栄に貢献した。
政治的関心は無かったが、板垣退助・福澤諭吉・荘田平五郎を介して日本財界の
重鎮、岩崎弥太郎とも密接な関係があり、
その厚い人望が商談会の発展にもつながったのである。
昭和6年4月、78歳の天寿で逝去。
18歳で東京に旅行し「東京紀行」を書く。
以後昭和6年3月まで明治・大正・昭和の臼杵市の政治・経済・人脈網、
東京での出来事などなどを60冊の日記として残す。
しかしその日記は孝次郎の遺言で門外不出。
今も可兒家で孝次郎が使用していた長持ちの中で眠っている。