安達 丹霞(あだち たんか)

(1858〜1930)

安政5年(1858年)臼杵市本町の呉服商丸屋に生まれる。本名は安達紋五郎。
可兒孝次郎の嫁マサの弟で、孝次郎とは5歳下の義弟である。

幼少時には日田の広瀬淡窓(ひろせたんそう)の咸宜園(せいきえん)に学ぶ。
何事に於いても秀才だった。

帰郷後、安養寺智雄(あんようじともお)・児玉慮香(こだまろか)と往来し画を修める。
後に大阪、下関に於いて商売を始める。

永年東京に移り住み、日露戦争時に株の売買で巨万の富を築き
現在の駒込周辺に3万坪の敷地を購入、大御殿を建設。
名前を捩って門を5箇所につけ、その門から屋敷まで馬車で往来していた。

又、ダルマ宰相と言われた高橋是清(たかはしこれきよ)、
明治・大正・昭和の政界の中枢で活躍した若槻礼次郎(わかつきれいじろう)等と親交があり
紋五郎の長女、安子(しずこ)が是清の膝の上に抱かれている
写真などが多数残っている。

画を修め豪快に怒涛のように明治・大正・昭和を生きた丹霞は昭和5年10月72歳で逝去。

その後長男・次男は戦死。
残された妻と7歳の長女安子が莫大な遺産と広大な土地を相続したが
丹霞が選任していた後見人の弁護士に騙され、全ての遺産を取られてしまい
一代で築いた財産は丹霞と共に消えてしまった・・・

丹霞は今も臼杵市多福寺の一角にある、自ら四国から運ばせた
大きな丸い御影石の墓の中で眠っているが
長女安子の有為転変の人生をどのように見ていただろうか。

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