山本 達夫(やまもと たつお)

(1856〜1948)

安政3年(1856年)臼杵市海添鉄砲町に山本たしか(やまもとたしか)の次男として生まれる。
3歳のとき本家の山本幽妻(ゆうさい)の養子となる。

幼年期は大変なガキ大将で、本町に生まれた可兒孝次郎とは3歳違いの友達であった。
以後公私に渡り昭和6年(1931年)孝次郎が亡くなるまで親交があった。

上京し慶応義塾に入学するも月謝が続かず大阪に行き小学校教師になったりと
青年期は非常に波乱であった。

しかし28歳のとき、荘田平五郎の招きで三菱汽船会社に入社。
横浜店福支配人、東京店副支配人を務めた後日本銀行に入社。
帝大出身のエリートが多数を占める中で43歳のとき、日銀5代目の総裁に任命される。

明治32年「日銀ストライキ事件」がおこるが山本達雄は動揺することなく対処した。
時の元老伊藤博文は山本達雄を援護して政府に意見している。

48歳で任期を終えると共に貴族院議員となり第二次西園寺内閣で大蔵大臣に任命された。
今でこそ経済界出身の大蔵大臣はいるが山本達雄がその第一号であった。

後に農商務大臣・内務大臣を歴任、可兒孝次郎たちの臼杵商談会が活躍した時代に
鉄道の日豊線ルートを提案していた商談会のために大いに活躍した。

大正9年には男爵を授けられる。
若年期は波乱に飛んだ時代だったが、荘田平五郎から招かれて三菱入社後は
非常に順風満帆で政界と歩み92歳の天寿で逝去。


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